坐禅やってきました。
以前から実施していましたが、昨年は何故か出来ず今回久々の修行。
ちなみに宗派は曹洞宗。
何故『坐禅』なのか。
別にウチがここのお寺の檀家という訳ではありません。
説明が大変なのでWIKIから一部を転載します。
曹洞宗は何かの目的のための手段として坐るのではなく、坐禅そのものが目的であり、坐ること自体に集中する黙照禅の立場に拠る。北宋時代に臨済宗と曹洞宗は理論的に激しく対立し、この対照は現代の日本にまで継続している。日本曹洞宗の祖・道元は、ただひたすら坐ることに打ち込む只管打座(しかんたざ)を唱えている。
しかし、曹洞宗においても、修行者本人が現成公案を抱えるので、修行者本人の疑問・疑団が解消されるまでは、逃げずに疑問に正面から向き合うことが要求される。疑団の解消後は、臨済宗・曹洞宗共に、最終的に只管に落ち着くとされる。
どちらも自身の懸案から逃げずに、己自身に対峙するのが坐禅の特徴である。
はい、色々と述べられていますが、最後の一文にすべて集約されてます。
日頃から私達が主張し実践し寮生達に指導している内容と全く同様の教えがあると私は捉えているのです。
ご住職も我々の事をよく知りとても理解してくださっている方。
説法がこれまた心に響く良いお話をしてくださるんです。
まぁ寮生全員に響いてはいないと思いますが・・・。
話をどう感じどう捉えるかは寮生達自身。
私達は出来る限り寮生達が自分で気付き、自覚し、変われるチャンスを提供しているだけ。いくら上から押し付けても、受け付けない者は何を言っても受け付けませんから・・・。特に思春期、反抗期の年代はね。自分の内なる部分から能動的に変わらなければ、本質的な部分で人が変わることは無いです。
あの~、だからといって、引きこもっている状態や暴力沙汰が絶えない若者に対し、自分から気付いて変わるまで待ちましょう・・・という話ではありませんからね。それ全然話のレベルや状況が違いますから・・・。
その『待ちましょう』的なカウンセラーからのアドバイスが後に取り返しのつかない悲劇を引き起こすこと、決して少なくないですからね、お気を付け遊ばせ。
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